中國紀行 CKRM Vol.24
「徐福」の名が歴史書『史記』に現れたのは、「秦」の始皇帝(嬴政 )が、不老長寿の願いを抱いたことがはじまりでした。秦の天下はわずか15年。広大な中華の統一王朝としてのノウハウは、まだまだ乏しかったのでしょう。嬴政は秦の政権維持と中華全土の太平の確立のため、自らの延命を望み不老不死の霊薬への憧れを抱いたのかもしれません。徐福は始皇帝の命により、遠く東の国にあるという不老不死の霊薬を探しに出た「斉」国出身の「方士」でした。
徐福の一行が日本に辿り着いたという話は、見つかっている史跡から考えても、ずいぶん昔からあるようです。いつからという具体的な記録は残されていませんが、多くの研究者の研究と、各地に残された伝承をつなぐと、徐福一行のいた地域について、ある仮説が浮かび上がりました。
徐福一行は日本に来て「田」を名乗ったともいいますが、これは徐福出自の国である「斉」(田斉)、当時の王の姓である田氏が由来です。徐福は、秘密裏に滅ぼされつつあった田氏を日本に亡命させるための奇策として、不老不死の霊薬を探すと始皇帝に進言したという説もあるのです。
徐福一行が辿り着いた地域はどこだったのか。そのヒントが、「甲斐国」にありました。鎌倉時代から、同地の守護をつとめた武田氏発祥の地です。甲斐源氏の武士・信義が土着して「武田」を名乗り、その子孫、武田信玄は戦国最強の武将の一人として名を馳せ、甲州馬で構成された武田の騎馬隊は諸国を震えあがらせたと伝わります。始皇帝の「秦」もまた、馬使いから発展した国と伝えられています。甲斐の武田もまた、田がつく姓です。その武田の由来は「武田八幡宮」の武田王とされますが、武田王とはどのような存在だったのか?
また、武田信玄といえば「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」いわゆる「孫子四如の旗」が有名ですが、孫子は始皇帝より前、春秋時代の人です。本名は孫「武」であり、出身が斉国の大夫で、田氏であるとも伝わります。徐福一行の末裔が「田」を名乗ったという伝承と、「武田」氏をはじめとする名族の興りには繋がりがあるのか?中國紀行CKRM的視点でこの謎に迫っていくと、旅の果てに日本の始まりの国名である「倭」の興りに関する、重要な可能性が見えてきました。