中國紀行 CKRM Vol.36

CKRM 36

コロナ禍になってからというもの、中国への渡航が困難になったのを機会として、弊誌では日本国内に残されている大昔からの中国大陸との関係を、様々な特集テーマで紹介してきました。琉球特集から始まり、アイヌ特集、江戸特集と進めていきながら、取材先でお聞きした事や、多くの研究者のご意見を参考にさせていただき進め、34号では日本の歴史の始まりとされる、天孫降臨のテーマにいきつきました。
続く35号の媽祖特集では、機械文明が発達する前の航海を、当時の信仰を含め考え旅したことで、この先の中国各地の方々との交流の方向や、日本の方々にお伝えすべきだと感じたテーマがいくつか見えてきました。その一つが今回の特集テーマ、日本の神々が暮らしていたとされる「高天原(たかまがはら)」が、現在の中国四川省にあった「古蜀國(こしょくこく)」なのではないかという可能性です。かつての中国大陸と日本列島の間には、現代の貿易商のように国々の文化を繋ぐ存在がいた可能性があります。そのような方々がいたからこそ、これほど離れた地域の中にも共通の文化が生まれ、共通の大切な事柄があるのかもしれません。
日本最古の国史である『日本書紀』の中には、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と祖父である高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)の共通の尊称である「尊」について説明する箇所がありますが、初代である神武天皇以降の天皇の系譜を見ると、御名の最後に尊がついている方々にはある共通点がありました。それは、「異なる文化圏の人々を自国の文化と繋げたこと」だったのです。四川省の三星堆遺跡から出土した「尊の中身」や、組み立てられた「巨大な青銅器」は、日本の神代の記録とも合致しているかのようです。
中原文化の発祥とされる夏王朝の禹王以前に、すでに蜀はありました。金沙遺跡から出土した「玉器と金器の技術力の高さ」と、どこかへ移動した可能性がある「青銅の技術」。中国最古の地方誌の一つである『華陽國志』の中に記された「會昌神」と、日本の「岐神」の類似性。『山海経』の中にある「扶桑」の記述と、「養蚕」の発祥地である「蜀」の、初めての王である「蚕叢(さんそう)」。日本はかつて、世界有数の養蚕国家でありました。これら共通点の中にある古代日中交流文化の可能性に、中國紀行CKRM的視点で迫ります。