きっかけを転換点に、日中新時代を切り開く

元重慶総領事瀬野清水さんに聞く

中国との外交に携わること37年間、通算25年を中国駐在で過ごした外交官がいる。元重慶総領事の瀬野清水さん。改革開放後、世界第2位の経済大国へ躍り出るまでの中国の変遷を見つめ、定年後も日中の民間交流に力を注いでいる。半生を中国とともに歩んだ瀬野さんに中国の昔と今、そして青少年交流や日中関係について語っていただいた。

本文写真

最初に中国に興味を持ち、関わるようになったきっかけを教えていただけますか

日本人は『三国志』、『水滸伝』などを通じて中国の雄大な景色に憧れを抱いており、おおらかで親切な中国人に親しみを持っていますが、私も高校生のときに、ある放課後日本人の従軍カメラマンによる写真集をみました。その写真集は国威発揚を目的としたもので、残虐な写真が含まれていました。日本人の立場から写しているのは疑いなく、なぜわざわざ戦争して中国まで行ってそんな残酷なことをしたのか、学校では教わらなかったのでショックを受けました。そして、いまの中国人は日本をどう思っているのだろうかと考えました。もしも日本人への恨みがあるのであれば、それを少しでも減らすことを一生の仕事にしたいと思いました。

初めて見た中国にどのような印象を持たれましたか

1976年に外務省から派遣されて香港、北京、遼寧の大学で学びました。香港は都会でしたが、北に行けば行くほど建物が普通になり、見渡す限り地平線という景色も相まって荒廃した印象を受けました。砂埃がひどく、石炭の燃え殻のようなものが降ってきて空気は悪かったです。中国の人たちはぼろぼろの人民服を着ていました。驚いたのは、小学生くらいの子供が道で拾ったタバコを吸っていたことです。多分食べるものがなくて、口寂しかったのだと思います。管理が十分ではなかったから悪いことをしても怒られないのです。ただ、生活は貧しいですが、皆目が輝いていており、親切でした。日本人だからいじめられるということはありませんでした。

私は街を歩くのが好きなので、ひまさえあれば学校から抜け出して散歩しました。そして、現地の人とお喋りしたり、一緒にご飯を食べたり、招かれて遊びに行ったりして老百姓(庶民)の人と接触しました。肉親が日本軍の被害に遭ったという話をされることもありましたが、今の日本と昔の日本は違うということで優しくしてもらいました。

数十年前の中国と今の中国では何が大きく変わったと思われますか

高層ビルがたち並び、街は大きく変わり、中国は世界第2位の経済大国になりましたね。世界は中国に対してこれまでとは異なる役割を期待しています。それが「一帯一路」などにつながっており、その名前にシルクロードという言葉が含まれていることが象徴的だと思います。唐代、シルクロードの道を切り開くことによって唐の都長安は栄えました。世界のGDPの3割が唐に集中したといいます。同時に、シルクロード沿いの都市も栄えました。それを再現しようという考えがあるからこそ一帯一路の構想には「シルクロード」という言葉が使われているのだと思います。中国は締め付けが厳しいと日本のマスコミはいいますが、昔に比べれば中国の言論空間は広がっています。今後、さらに自由な方向に変わっていくでしょうし、また、そうしなければ一層の経済発展は難しいでしょう。2007年以来、中国は日本の最大の貿易相手国となっており、中国との相互理解と相互信頼を一層深めるためにも、日本は一帯一路の構想に協力するべきだと思っています。

最後に今後の日中関係に期待することを教えていただけますか

今年は日中平和友好条約の締結から40年目に当たっています。激動する世界情勢の中で、条約の名のとおり、隣国中国との平和的、友好的な関係は何よりも大切です。40年の曲折を経て、今年が安定した日中新時代の元年になるよう心から念願していますが、それには、周恩来総理がかねがね言われていた「民間が先行し、民を以て官を促す」という外交哲学が大切です。

中国を旅行する日本人がなかなか増えませんが、百聞は一見に如かずなので、大勢の日本人、特に未来ある青少年の皆さんには中国に出かけて行って、自分の五感で「新時代」の中国を体感してほしいです。中国を旅行する若者が増えて行かない背景には、中国に対する国民感情があると言われますが、国民感情は不変ではなく、何かのきっかけさえあれば容易に変わるものです。

例えば、青少年の交流です。特に高校生の相互交流は政府の主導で進んでいて、長い目で見たら大変素晴らしいことですが、日中両国で15億人もの人口からみればまだ足りないとも考えられます。距離が近いので修学旅行や個人旅行などでもっと気軽な交流が進めば良いと思います。

例えば、パンダです。日本の子ども達はパンダが大好きです。今年は東日本大震災の発災から7年が経過して、震災の記憶の風化が懸念されております。上野動物園にシャンシャンが生まれたことで日本中が盛り上がっているように、被災地にパンダが来れば、震災で心に傷を受けた子ども達を元気づけることができるでしょう。東北を明るく盛り上げる復興のシンボル、日中関係改善のシンボルとなって、日本人の心を暖かくするうえで大きな役割を果たすに違いありません。

日中平和条約締結40周年の今年は可能な限りこのようなきっかけを探し、それらを転換点にしながら安定的で持続的な日中関係の新時代を切り開いていく元年となるよう念願しています。

プロフィール 瀬野清水

1949年生まれ。75年外務省入省してから北京、上海、広州、香港などで勤務、2012年重慶総領事を最後に退職、通算25年間中国で駐在した。現在、Marching J財団事務局長のほか、アジア・ユーラシア総合研究所客員研究員、日中協会理事なども務めている。共著に、「激動するアジアを往く」、「108人のそれでも私たちが中国に住む理由」などがある。

 

プロフィール写真

140年の歴史を持つ有田焼の老舗 香蘭社を支える「伝統」と「革新」

株式会社香蘭社代表取締役会長 深川紀幸氏インタビュー

中国『易経』の言葉「君子の交わりは、蘭の宝の香りの如し」に範をとって社名を名付け、澄んだ白磁と繊細かつ華やかな絵付けの美しさが特徴で、国内外で高い人気を誇る「有田焼」老舗株式会社香蘭社。香蘭社は「古伊万里」「鍋島」「柿右衛門」の3様式を融合させ、有田400年の歴史を昇華させた精微で華麗な「香蘭社調」「香蘭社スタイル」を生み出し、1878年のパリ万博をはじめ、数々の万博で金牌やグランプリに輝いて、近代有田焼の最高峰として明治期より世界を魅力し続けている。
伝統を受け継ぎながら日々進化を続ける同社の先代社長・現会長の深川紀幸氏に、時代を超えて続く香蘭社の物語を聞いた。

インタビュー記事2用

香蘭社の創立は1875(明治8)年。明治維新に伴う廃藩置県により自力で販売ルートの開拓を迫られた窯元らが、世界万国博覧会に出品する商品作りのために結社を作ったのが始まりだ。その製品が1878年のパリ万博で金賞を受賞した後、代深川栄左衛門 の単独経営となり、現在に続く基礎が作られていった。

「革新」と「保守」は9対1でちょうどいい

現在、同社の柱となっている事業は、美術工芸品・日用食器などを中心とする磁器の製造・販売とともに創業者・8代深川栄左衛門が手がけていた碍子(がいし:電線を電柱などに絶縁状態で固定するための陶磁器製の器具)製品の製造、1970年代に入って新しく設立されたニューセラミック製品の製造の3つだ。

有田焼の老舗窯ともなればさぞかし伝統を大事にしているのだろう……と思いきや、「伝統を守ろうとしても必ず守りきれない部分はあると思います。だから、10人いたら9人は新しいことに取り組み、1人が維持することに専念するぐらいでちょうどいい」と深川会長は言う。

創立間もない頃に吹き荒れたジャポニズム、戦時中の職人の徴兵による人員不足、敗戦に伴う海外支店の廃止、高度経済成長からバブル期にかけての需要増大、バブル崩壊以後のギフト品の低迷、リーマンショックと続く歴史の波の中で、同社も時代に合わせてまた変化を続けてきた。

2006年から7年間社長の職にあった深川氏が決定した、百貨店販売から直販への切り替えもその一つだ。「それまで自社の社員をつけていたけれど、売り上げから言えばとてもそこにお金はかけられない。そこで百貨店に直接関わるのは止めにして、通信販売やweb、自社店舗での販売メインへと少しずつ切り替えていきました」と、消費者の変化に合わせて販売ルートを大幅に変更。同時に、百貨店向けの価格付けを見直したことで、利益が出せる体制への建て直しにも繋がった。

その一方で、ロングセラー商品が極めて稀な焼き物の世界で、50年近く売れ続けている象徴的なデザインがいくつもあることも同社ならでは。もちろん発売直後に比べれば販売数は落ちているものの、半世紀を得た今でも古びたところがまったくなく、人々に愛され続けている。

企業の本質は人

しかし一方で、時代がどれだけ変わろうが変わらない部分もある。その一つは「企業の本質は人」だということだ。多くの伝統産業と同じく、次世代を担う若者の登用は同社にとっても頭の痛い問題。これまでにも、大学の研究室への投資・連携を通して人材の確保に力を入れてきたが、日本唯一の陶磁器専門の専修学校・県立有田窯業大学校を合わせた佐賀大学芸術デザイン学部などとも連携して「情熱を持った、ぶれることのない人材」を獲得する努力は絶対に必要だと深川氏は言う。

同社のデザイナーは入社後、明治初期頃に始まる先人たちが書き残したデザイン帳を見て、デザインの流れを体験するのが第一。その後、身近な草花のデッサンをベースに展開させていくのが基本で、最近では雑誌や着物の模様、他社の製品など多くの直接的な刺激を取り入れることが、時代を先取りしたデザインの誕生にも繋がっているという。中には、色合いやデザインが斬新過ぎて受け入れられず失敗したりもするそうだが、20年、30年の時を経てから人気が出ることもあるというから奥が深い。

最後の一社になるとしても有田焼として頑張りたい

同社のもう一つの原則は「製品の品質を精緻にすること、形状および画彩は美にすること、製造の費用を抑え原価を安くすること、 名誉を保ち永久の利益を図ること」との4つの言葉に集約された、創業者の精神であり、同社の核を為すもの。その示すところは、どの業務分野においても顧客が価値を見出せるような商品を作り続けていくこと。それは「生産を守ることが伝統を守ること」でもあるからだ。

「有田という町は現状では昔に比べて衰退しています。今後どうなっていくかは分かりませんが、たとえ有田焼最後の会社になるとしても、この町の中で、最後の最後まで有田焼として頑張っていきたいですね」。深川氏の言葉には、有田焼400年の歴史とその担い手である誇りが溢れていた。

株式会社香蘭社代表取締役会長

プロフィール写真2