中國紀行 CKRM Vol.28

全ての料理には歴史がある。中華料理や中国料理として日本人の舌にも馴染んだ大陸料理の始まりを、各時代の背景と共に伝えます。

華僑や華人といわれる、中国出身の人たちがいます。彼らは世界各地に、仲間たちが安心して暮らせる居場所を作りました。いつの時代、どこの地域にもよそ者や言語習慣の違う人に当たりが強い人がいます。それらから仲間を守る、最低限の自己防衛の手段として、共に暮らせる居場所を、それができる人たちを中心に作り上げたのです。そのような居場所が、中華街の前身になりました。彼らがなぜそこに来たのか、理由は様々でしょう。このような居場所を作るには、少なくない資金が必要になります。そんな時に頼りになったのは、何かしらの事業に成功することが出来た人たちでした。今の呼び方でいうなら、貿易商。有史以前より、日本列島には世界中の人が訪れています。古くは、良質の黒曜石を求めてだったのかもしれません。貿易商は、様々な文化に必要とされるものを求め、世界中を旅しました。その中で一番難儀したのが、食べ物でした。食べ物が合わなければ、その地に長く留まることができません。力ある貿易商は、自分の口に合う料理を提供してくれる料理人と共にいることを重視しました。料理人は貿易商と共に旅をし、その地域で用意できる食材をもとに、彼らの口に合う料理を作り出します。現地の食材を活用するので、そこで暮らす人にとっては、さぞ衝撃的だったでしょう。自分たちが食べている食材が、見たこともない料理に変わり、食べてみたら美味しい。日本各地の中華街は、かつての貿易の中心地にあります。そこに残っている事業が、どうして飲食業なのか。中華文化と食の伝播を考えながら、中國紀行CKRM的視点で迫っていきます。

中國紀行 CKRM Vol.27

教育という言葉が、なぜ難しく硬いイメージになってしまったのか。日本最古の教育機関と、その根底にあった儒学に迫ります。

教育という二文字を目にすると、何だか難しそう。とか、硬い感じがする。と、思われる方が多いのではないでしょうか。それはきっと、幼少期の経験に基づいた感覚でしょう。儒学といわれても、何のことかわからないと思われるかもしれませんが、論語といえば耳馴染みがあるのではないでしょうか。論語は孔子という人の教えを弟子がまとめたものですが、それを元に、中国で昔から大切にされてきた考えを学ぶのが、儒学なのです。その儒学という人間が生きる上で学んできた知恵を中心に、様々な学問を学ぶ場として、日本では学校が生まれました。学校で学べるのは生きるための知恵ですので、教育を受けられるということは、凄く幸せなことでした。教育とは、昔は嬉しくなれる意味を持つ言葉だったのです。ではどうして、教育という響きに難しい、硬いといった、近寄りがたいイメージがついてしまったのか。もしかしたら教育を受ける場所に、何かしらの原因があったのかもしれません。近世日本の教育遺産に注目しながら、その根幹になっていた儒学とは何か、中國紀行CKRM的視点で紹介いたします。

中國紀行 CKRM Vol.26

かつては年に一度、八百万の神が集っていたという出雲國。出雲地域を旅しながら、出雲國の担っていた重要な役割に迫ります。

日本は八百万の神を崇拝する国でしたが、現在はどうでしょう。この感覚は昔より薄くなっているようですが、その本質はまだ残っているように感じます。出雲大社という神社がありますが、名前に聞き覚えがあったとして、出雲大社がどういう神社で、出雲大社のある出雲がどういう地域だったのか、ご存知でしょうか。日本の中で、出雲以外の地域は10月を神無月と言いますが、出雲だけが神在月と言います。これは、全ての神が出雲の地域に集まっていたからでした。ここに集っていた神とはどういう存在だったのでしょう。かつて日本人は、神は空と海が繋がるところから来ると考えていました。出雲が面している日本海は、対馬海流とリマン海流が循環していて、深海は日本海盆、対馬海盆、大和対盆がそれぞれ反時計回りに対流している生態系の豊かな海です。この豊かな海の恩恵を、今は亡き多くの国々も受けていました。これまでの中國紀行CKRMの取材で見えてきた、古代の中国大陸と日本列島の貿易路。その中でも日本海の路は重要です。八百万の神が集まっていた「出雲國」には、この貿易路について真実味を帯びてくる要素がありました。八百万の神とはどういう存在だったのか。その答えの片鱗に、中國紀行CKRM的視点で迫ります。

中國紀行 CKRM Vol.25

聖徳太子に様々な大陸各地の叡智を伝えたという秦河勝。シルクロードと知られざる秦の始皇帝の末裔の謎に迫ります。

聖徳太子。かつて聖人達の崇拝をも集め続けた象徴的存在。聖徳太子はいなかったと勘違いされている人もいるだろうが、聖徳太子というのは諡号なので、生前に名乗られていたものではない。生前の名である厩戸皇子(厩戸王)が、現在では聖徳太子という諡号より多く使われているだけで、実在しなかった伝説の人という訳ではない。厩戸皇子は自身に強く影響を与えたとされる秦河勝と共に、日本中に仏教を拡散することに成功した。厩戸皇子に仏教だけではなく、様々な大陸各地の叡智を教えたという秦河勝とは何者なのか。河勝の姓である秦とは、秦の始皇帝の末裔の氏族といわれている。秦とは、大陸の西から来た人たちの国といわれるが、彼らのネットワークは天竺までにもつながっていたのか。仏教の伝播とシルクロード、厩戸皇子と秦河勝が夢見た、仏教による国作りの理想とは何だったのか。玄奘三蔵の様々な記録を交え、中國紀行CKRM的視点でお伝えします。

和華第34号

  • 目次

    木村 伊兵衛 北京 1963-73 ~『中国の旅』より
    野町 和嘉 「長征」の道をたと?る 1987-89
    齋藤 康一 上海 1992-93
    英 伸三  上海放生橋故事 1992-98
    田沼 武能  シルクロート?の子と?もたち 2002- 05
    稲垣 徳文 「巡礼」カイラス山北壁を撮る 2010
    小竹 直人 中国最後的火車 1990-
    竹田 武史 長江 六千三百公里をゆく 1997-2007
  • 出版社からのコメント

    1960年代以降の中国の姿を写真家たちの作品、エッセイ、インタビューで甦らせる。
  • 内容紹介

    人民服姿が日常だった60年前の北京の街で、自由な風が一気に吹き始め、モノと人にあふれる90年代初めの上海で、ときにはシルクロードや山岳地帯、チベットまで足を踏み入れ、現地の生活に肉薄した写真で人々の生きた姿を映し出す。日本写真史の巨匠・木村伊兵衛をはじめとする8人の写真家たちの写真作品、エッセイ、インタビューで構成される本書は、スマートフォンとSNS隆盛の時代に、今ではもう見ることができない中国の風景を目の前によみがえらせる。写真家の意思のある視線を通して、悠久の、激動の、一瞬一瞬を捉えた写真の数々は、私たちをまだ見ぬ中国へといざなう。