中國紀行 CKRM Vol.32
九州北部には、多くの女神信仰が残されています。その信仰の特徴を考えると、全ての女神が「水」との関係が深く、「神功皇后」(じんぐうこうごう)との縁があるようでした。神功皇后は「日本武尊」(やまとたけるのみこと)の子である「仲哀天皇」の妃であり、八幡神の正体といわれる「応神天皇」の母。そして、中国「二十四史」の一つである『三国志』の魏書三十巻の倭人条、いわゆる「魏志倭人伝」に書かれている、邪馬壹國の「卑彌呼」と同一人物と考えられます。
仲哀天皇亡き後、新羅(しらぎ)へと向かう神宮皇后を加護した「宗像三女神」(むなかたさんじょしん)を祀る、大島と沖ノ島は航海の目印の島であり、沖ノ島にいたっては島自体が御神体でした。沖ノ島からは、中国で作られた可能性の高い古代祭器が発見されています。
いわゆる海人族の象徴的氏族である阿曇(あづみ)氏は、神功皇后によって海中から招かれたという「阿曇磯良」(あづみのいそら)の末裔といわれ、「綿津見三神」(わたつみさんしん)を祀っています。佐賀市大和の「與止日女命」(よどひめのみこと)は、神功皇后の妹であると伝えられ、天河川に名尾川が合流する川上峡に祀られています。宇佐神宮の地主神である「比売大神」(ひめおおかみ)は、宗像三女神と同一神ともいわれますが、これはある時代の研究者による見解とのことで、異なる女神とも考えられます。
信仰というのは様々な要素を取り入れることで、時代に則した変貌を遂げることがあり、信仰対象の変化はこれまでに幾度もあったのでしょう。日本の主神は女神である「天照大神」であり、九州北部は日本文化の発祥地といわれる地域の一つ。なぜ九州北部の女神信仰は、「水」との関係が深いのでしょうか。神功皇后と卑彌呼が同一人物なのだとしたら、邪馬壹國のある場所から、神功皇后はやってきたということになるでしょう。その行程に「水」があったからこそ、女神信仰は根付いたのかもしれません。
いわゆる「魏志倭人伝」によって、魏の使いは女王卑彌呼のいる場所までの記録を残していますが、その中に残されている水行何日という表現の中にも、「水」との関係が垣間見えます。この謎を解く鍵が、九州北部に残された女神信仰の中にありました。古代からの風習を現代に受け継ぐ、女神を祀るお社を訪ねながら、『中國紀行CKRM』的視点で多くの謎に迫っていきます。